信州の自然学散歩   中村雄二

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1-安曇野の湧水が危ない 
 2-活断層帯パワースポット
 3-塩の道千国街道
 4-稗田山崩れと幸田文
 5-立山 雪の大谷・室堂
 6-日本一ミズバショウ
 7-拾ヶ堰大土木工事
 8-姫川源流の地学
 9-木曽路と檜
  コラム安曇野残照
10-中山道・木曽路 
11-フォッサマグナ
12-信濃川源流 
13-浅間山の大噴火
14-上高地化粧ヤナギ 
15-焼岳と上高地 
16-乗鞍高原の成り立ち 
17-コマクサの悲劇 
18-燕岳登山 
19-高原の変遷 
20-温泉の基準
21-後立山連峰・五竜岳 
22-梓川水系 揚水発電所
23-白いピラミッド甲斐駒ヶ岳 
24-鳶山崩れ1 
25-鳶山崩れ2 
26-雨飾山と百名山 
27-最後の山歩き 
 
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 【特別編】-信州の山と花巡りへ

1-「安曇野の湧水が危ない」


【信州の今】 2011/04/24
4月の安曇野は、白銀の北アルプスを背景にして、辛夷・杏子・桜が次々に咲き揃います。
                          …………………
 松本平の中央に位置する安曇野は、北アルプス前山群の山裾に広がる複合扇状地です。 扇状地は礫の多い沖積層で出来ているため、山から流れ出た水は、「扇の要」の部分で地下に潜って不透水層に沿って流れ、再び、扇状地の終わる先端部で湧水となって現れます。

  松本平の全ての河川がひとつに集まる穂高町(旧)東部周辺には、昭和の名水百選に選ばれた「安曇野わさび田湧水群」があり、ここでは日本一の生産量を誇るわさびが栽培されています。その中でも、御法田の「大王わさび農場」は最大規模で、湧水流量は実に1日当り12万トンとのことで、わさび田のあらゆる所から吹き出ている豊かさです。

 所が、ここに深刻な問題が発生してきました。昭和62年に高速中央道・長野線が開通して以来、都市化の波が急速に押し寄せ、周囲に地下水を活用する工場や大規模な観光施設が次々と建設され、同時に住宅地がここ郊外へも拡大してきました。その為現在では、湧水量が減少すると同時に、水温が上昇する危機的な状況になっています。

 信州大学の学術調査に依れば、ここの湧水はいわゆる「地下水」だけでなく、扇状地中央部の農業・工業用水や一部の生活排水も礫層に浸透して流入しており、しかも近くの河川の伏流水も混入しているらしいのです。そのため、夏場の水温が16.3℃とわさび田としての上限の17℃に近く、湧水量も徐々に減少傾向にあり、このまま進行すればわさびの生産に深刻な影響が出て来ると指摘しています。

 今ちょうど満開の白いわさびの花を観賞したついでに、辛さ日本有数と評判の「大王わさび」を買って帰り、当地ではかなり割高の刺身を用意しました。貰ったマニュアル通りに卸したのですが、辛いどころかサビ抜きに近く、全く期待外れでした。わさびの辛さは、清冽な水とその水温に左右されるので、水温が品質にまで影響して来ているのかも知れません。
 

2-「活断層帯にはパワースポットがある」

 

守屋山から八ヶ岳を望む

【信州の今】2011/04/30
安曇野で摘んだフキノトウ、追ってタラノメ、天ぷらとなって少し遅い春の薫りが届きました。
                        ……………………………
 長野県のほぼ中央に位置する諏訪湖の南側に、『守屋山』(1,650m)という山があります。ここは女性登山家・田中澄江さん著「花の百名山」のザゼンソウで有名な所です。
 4月中旬、足慣らしに登って見ましたが、残念ながら花期が遅れて、未だ芽吹いていませんでした。頂上は、少し霞んではいましたが、北・中央・南アルプス、八ヶ岳が一望できる絶好ポイントでした。

 花や景観はさて置き、この山は御柱祭で有名な「諏訪大社・上社本宮」のご神体とされています。諏訪大社側から見ると、何の変哲も無い山容で、山道付近を捜してもご神体となるべき特別な「ランドマーク」もありませんでした。
  しかし、いろいろと調べて行くうちに、非常に興味のある事実が明らかになって来たのです。  「守屋山」は、日本を代表する大断層帯である「中央構造線」と、「糸魚川ー静岡構造線」が交差する位置にあり、地下の大活断層がせめぎ合って、巨大なエネルギーを発するパワースポットだったのです。神道の偉大な先人は、この強力なパワースポットを超能力で察知して、この地を聖地に定めたのですが、地下にある断層帯は直接目に触れることが出来なかったので、目の前にある「守屋山」がご神体になったのだろうと推察されます。

 所で、「糸・静構造線」と交差した「中央構造線」のその先は、断層のずれのため北西側に12km移動しているらしいのですが、何とそこには「諏訪大社・下社」が鎮座ましましておられました。これ以外にも、「中央構造線」の大活断層に沿って、愛知の「豊川稲荷」、紀伊半島の「伊勢神宮」 ・「高野山」、四国の「石鎚神社」などが、その代表的なパワースポットとして存在しています。一方「糸・静構造線」の方にも、安曇野の「穂高神社」、山梨の「身延山」等があります。

 初回は環境問題という硬い話でしたので、今回は奇抜な話題にしましたが、この仮説を「まったく科学的根拠無し」と断ずるか、はたまた「ロマン」を感じるかは、読者にお任せしたいと思います。
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3-「塩の道・千国街道を行く」

     
塩の道より白馬三山を望む 
 
塩の道沿いの百体観音 
【信州の今】今年の北部信州は春が遅く、ようやく桜が満開となりました。雪が消えるのを待つように、
フクジュソウやカタクリが一斉に咲き揃ってきます。
……………………………………
 塩の道「千国(ちくに)街道」は、糸魚川から松本までの120kmの古道で、古来より海側からは塩・魚、山側からは麻・たばこ・大豆などの生活必需品の流通路として使われてきました。「塩尻」は文字通り、塩の道の終着点です。

 街道の北部地域を流れる姫川は、日本有数の急流で、暴れ川として有名です。地質学的には、「糸魚川・静岡構造線」に沿った断層地帯で地盤が軟弱なため、氾濫や決壊が頻発し、昔は姫川沿いに道路を作ることは不可能でした。

 その上、越後~信濃の国境流域は山峡が深く、冬季は雪崩が多発するので、東側の迂回道路となる大網峠(840m)の急坂の難所をはじめ、4ヶ所の峠を越えなければなりません。
そのため、冬季に荷を担いで運ぶ人夫「歩荷(ぼっか)」や、夏季には牛に荷を載せて運ぶ人夫「牛方」は、大変な労苦を強いられたとの事です。

 例年5月の連休中に、小谷村・白馬村・大町市の観光協会が、それぞれ「塩の道祭り」を3日連続して開催していますので、この古道の名称となっていて、史跡も多い「小谷村・千国越えコース」に参加して見ました。

 今回歩いた街道沿いには、長い歴史と難路による犠牲を物語る様に、石仏や石塔が多数点在しており、牛方宿や塩倉が史跡として保存されています。
塩の道の中心地「千国の庄」(620m)は、江戸時代まではこの街道で最も賑わった流通拠点だったのですが今は「番所跡の史跡」のみが名残で、時代に取り残された、静かな佇まいの集落に変貌していました。
 最後の急坂「千国越え」(810m)を登り詰めると、西に白馬三山が見晴らせる栂池・白馬高原となり、これ以降の松本までは、道も比較的平坦となります。糸魚川から当地まで、未だ街道全体の半ば迄には達していないのですが、当時はここで、歩荷も牛方も流石に気が緩んで、大休止したことでしょう。

 僅か10kmでしたが、歩くことで往時の労苦に思いを巡らしたウォークでした。尚今回は、地学関連の出番が少なく、図らずも紀行文になってしまいました。
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4-「稗田山崩れと幸田文」

   
 
稗田山の崩壊跡の写真説明(崩落の一部分です)
 ①稜線中央の凸部が稗田山頂上で、左右の稜線全体が崩落
 ②左右の山稜より右下方(左下方)に流れる雪線が崩落跡
 ③下部の黒い森と雪の斜面部分が堆積した土砂の一部



←幸田文文学碑                     
【信州の今】安曇野の丘陵地帯では、リンゴの花が咲き揃ってきました。蕾はリンゴ色ですが、開花すると純白や淡いピンクとなり、とても可憐です。
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 「稗田山」は、後立山連峰「白馬岳」の東北東約10Kmのところにある、海抜1,443mのほとんど無名の山ですが、「日本三大崩れ」の一つとして、崩壊の山で名を知られています。当地の小谷村郷土館に依れば、『稗田山が、降雨も地震も無いのに突然崩れて、姫川の支流である浦川沿いに土石流が発生し、大災害となったのは、丁度百年前となる1991年の夏であった』という。

 5月上旬、「塩の道ウォーク」の機会を捉えて、この地を探訪してみました。黄砂の影響で、崩落跡は霞んではいましたが、はっきりその爪あとを確認でき、谷は膨大な崩落土砂で埋め尽くされています。また今でも崩落は続いており、雨後だったので、姫川の清流が濁流に変わるほどの土砂が流出していました。崩壊の原因は、一帯が「糸魚川-静岡構造線」に近く、地盤が軟弱な為です。

 この崩落地の下流の「塩の道・千国街道」沿いに、辺境の地にはおよそ似つかわしくない「歳月茫茫碑」という、安山岩塊の文学碑が建っていました。
 明治の文豪・幸田露伴の娘、幸田文がここを訪れ、稗田山の崩壊についてエッセーを書いたというのです。東京下町生まれで、地学・防災学など無関係と思われる女性が、なぜ山崩れなどに関心を持ったのか、不思議に感じました。

 帰宅後に文献調査をした所、彼女は70歳を過ぎてから、日本の主な崩落地を見聞して廻り、「崩れ」という本を著しておりました。当人は既に足腰が弱っていた様で、時には背負われて崩落現場を訪れたと書かれており、そこまでしてこの老女を突き動かした情念は、何だったのでしょう?「崩れ」の原文を読んでみると、『崩壊は憚ることなくその陽その風のもとに、皮の剥げ崩れた肌をさらして凝然と、こちら向きに静まっていた。無惨であり近づきがたい畏怖があり、しかもいうにいわれぬ悲愁感が沈殿していた。この現場で感じた憂愁感を、私なりに文章で伝えてみたい』と多彩な語彙を駆使した、文学者らしい表現で結んでいます。

 察するに彼女は、崩壊という自然現象を通じて、「滅びの無常」を画きたかったのだと思います。もし、ご興味がおありでしたら、読んで見てください。
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5ー「立山 雪の大谷・室堂ウォッチング」

   
雪の大谷   地図・室堂
【信州の今】山岳映画「岳」、ご当地・穂高岳ロケの所為か、観客多数。「コミック」のストーリーは置いといて、雪山空撮が素晴らしく、山好きは必見。

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 勤務していた会社のOBで、敬愛する先輩U氏は、北海道の勤務経験を持ち、『北国の本当の良さは、冬の雪の中に住んでみて、初めて分かる』のだと言う。寒さの苦手な筆者にはとても無理な話なので、せめて豪雪だけでも疑似体験しようと、「立山 雪の大谷・室堂ウォッチング」に参加してみました。

 このツアーは、「立山カルデラ砂防博物館」が主催する学術的な企画で、同館の専門の学芸員が、雪の立山を案内しながら詳しく解説してくれます。
「雪の大谷」は、立山・黒部アルペンルート中の、立山側バスルートの除雪作業の際にできる巨大な雪の壁ですが、これが時の観光の目玉にもなります。今年の壁の高さは18mとのことでしたが、この垂直の壁をどの様な方法で、正確に道路に沿って切り開くか、以下を読む前に少し考えてみてください。

 まずルートの設定についは、以前は周囲の山や建物で「山立て」をしながら、決めていたそうですが、現在ではGPSと高精度のナビ・システムを使用しているとの事で、これは大方の人が予測できる問題でしょう。次に開削方法ですが、高性能ロータリー車でも、垂直の壁を越す投棄は無理です。そこでブルドーザを使用して、表面から少しづつ削りとって、谷の部分に投棄道を設けて排出しているのですが、これが結構手間の掛かる作業です。

 雪の壁は、きれいな層状となっており、中国から飛来してくる黄砂が、黄色の筋となって雪層間に残ります。また新雪の直後に晴天となった場合、表面が融けて氷粒となってザラメの層ができたりする等、変化に富んでいます。 午後の「雪の室堂ウォッチング」は、視界15m程度の濃いガスの上、風速10mの身を切る冷気の中の雪上行軍でした。ベテランガイドが先導しなければ、遭難にもなり兼ねない状況で、冬山の恐怖を垣間見る体験でした。

 冒頭の先輩の言葉の意味は、『長く辛い冬を過ごし、漸く雪が溶けて春の息吹が訪れる時に感じられる、大きな開放感と喜び』の事なのでしょうね。
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6- 「日本一のミズバショウ群生地」


 
日本記の里と北アルプス   奥裾花自然園  奥裾花自然園のミズバショウ群落
【信州の今】松本平は盆地の内陸性気候のため、年間を通じて風が強い。特に4、5月は、晴天でも洗濯物が吹き飛ばされる位の強風が吹きます。
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信州には、一般には余り知られていない、日本一の密生度を誇るミズバショウの大群落地があります。その場所は、長野市北西部の県境に近い鬼無里(きなさ)という山里の最奥部にあり、「奥裾花自然園」と呼ばれています。ここは「日本の秘境百選」、「水源の森百選」、「日本の自然百選」、にも選ばれている文字通り信州の秘境であり、貴重な自然がそのまま残されている所です。近年の昭和39年、鬼無里村(当時)の林業関係者が村有林開発の調査をしていて、偶然にミズバショウの大群落を見つけたという、秘境ならではの意外性がそれを物語っています。

 5月中旬、狭い難路を越えて、この地を訪れてみました。未だ根雪があちこちに残る中、小形で可憐な白い苞が、圧倒的なスケールで咲き誇っていました。自然園は約7ヘクタール(70,000m2)の湿原に、ミズバショウが81万株密生しているとのことなので、半端な数ではありません。

 この密生要因を検証してみますと、群生地は標高1,250mの台地で、もともと沼地だった所へ堆積物が流れ込んで、広大な低層湿原の状態になっています。湿原の周囲は、緩やかな傾斜地に囲まれており、そこにブナの原生林が広がって、水源涵養林としての役目を果たしています。しかも、県境に近い奥地であり、発見されるまでは全く手つかずの状態であったため、ミズバショウの自生環境としては、極まり無い状態に保全されていたのです。

 ところで、ミズバショウの白色の仏炎苞は葉が変化したもので、一部分が切り欠いた円錐板状になっており、よく観察してみると、大部分の株の苞がほぼ同一方向の南向きに開いています。これは多分、北風から花芯を守り、且つ太陽の光を反射させ、内部の温度を少しでも高く保つためなのでしょう。自然の工夫には、まったく驚かされます。

【付録】行程の途中にある、「日本記」という里からの北アルプスは圧巻。
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7- 「江戸時代の大土木工事 拾ヶ堰」

【特別編】同じ安曇野を題材とした縁で、先輩の「梅本 到 絵師」とのコラボが実現しました。今回は彼の水彩画付きです。
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常念岳に向かって流れる拾ヶ堰(筆者撮影)   同左・絵師到画伯作品
本シリーズ第1報で詳しくご説明しました様に、安曇野は複合扇状地で形成されています。中央部の暖傾斜平原は水が乏しく、農民は何とかこの広大な荒野を豊かな水田地帯に変えたいと、古代より灌漑用水路を築いてきました。
江戸時代になると、大河川である高瀬川や梓川から取水する、大掛かりな灌漑用水路を張り巡らしましたが、それでも扇状地の下段部分は渇水年の時には水不足となり、水利争いの騒動が絶えなかったのです。
 
約二百年前、時の大庄屋・等々力孫一郎が、松本藩の援助を得て、扇状地下部地域の十ヶ村を潤す大灌漑事業「拾ヶ堰(ジッカセギ)」を、その当時では途方もない工法と規模でもって、僅か3ヶ月間の工期で完成させてしまったのです。
 
この奇抜なアイデアとは、一つには、取水源を梓川の更に南を流れている奈良井川に求め、梓川を跨いで水路を延長した事です。奈良井川は水量が豊富な上、水温が他の川より高いため、灌漑用水としては、より適していました。そこで大胆にも梓川の河川敷を横切った土手を作り、流路部分は水道橋や水底に沈下水路を設ける等の、試行錯誤で乗り切ったのです。

 更にもう一つの工夫とは、水路を地形の等高線に沿って構築する「横堰」と呼ばれる工法を採用した事です。水路の傾斜は1/3,000、即ち3km進んで僅か1mの落差をつけるという、当時の測量技術では殆んど不可能に近い測量を、独特の水準器を工夫して製作し、これを実現した事にあります。

 工事規模も半端ではなく、巾9m×深さ1.2mの巨大水路を、延べ15kmにも亘って掘削し、約1,000ヘクタールの水田を潤しました。尚この水路は、近年大改修されましたが、基本部分は昔のままで、現役として使われています。

 今回この現地を取材した折、騙し絵を見ている様な錯覚を起こす不思議な場面に遭遇しました。これは横堰と複合扇状地形が作り成す現象なのですが、あたかも水が、常念岳に向かって逆流する様に見える場所があります。(写真参照)この「騙し絵の風景」こそが、偉大な文化遺産であることの証なのです。

文献紹介に終始しましたが、今回は先人の偉業を知って欲しかったのです。
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8-「姫川源流の地学的検証」

【信州の今】安曇野のあちこちに、「おひさまの舞台」のポスター・幟がやたら目につく。ドラマのロケ地も新名所に加わり、当地への観光客が急増中。朝ドラ効果恐るべし。
   

姫川源流の位置図 

姫川源流と青木湖の断面モデル
   
 姫川源流周辺の鳥瞰図形 姫川湿原のミツガシワ 
大町市から糸魚川市に向けて、国道148号線が北上しており、白馬村に入ってすぐの国道沿いに「姫川源流」という所があります。ここは、一級河川「姫川」の水源域で、直近には低・中層湿原があって、湧き水が9℃と低温であるため、貴重な亜高山植物が自生しています。4月から5月にかけて、この地を通るたびに訪れてみましたが、フクジュソウ・ミズバショウ・ニリンソウ・ミツガシワと、季節を追って咲き揃い、楽しませてくれます。

 一方、姫川源流のすぐ南側には仁科三湖の一つ「青木湖」がありますが、この間は佐野坂峠で隔てられ、ここが分水界となっています。峠と言っても、あたかも湖を堰き止めた自然堤防の様な形状をした丘で、その丘の直下に水源があるのは、地形的に如何にも不自然です。(姫川源流周辺の鳥瞰地形を参照) この点については、地学的検証の価値がありそうなので、地理文献や地質図で確認して見ました。すると、姫川の元々の水源は青木湖であったが、有史以前に地滑りが発生して、その堆積物に依って堰き止められたらしい形跡がありました。青木湖の水源は北アルプスの湧水であり、また湖底標高が姫川源流の標高より僅か高いことも、地形図により確かめられました。
 明確な証拠の無い全くの私見ですが、これらの諸事実から、両者は同一の地下水源から発していると考えて、ほぼ間違いないと推論しました。

 姫川は源流から真っ直ぐ北上し、60km先の糸魚川で日本海に注いでいる清流です。一方、青木湖から流れ出た水は、長野県をほぼ1/4周蛇行して、高瀬川・犀川・千曲川・信濃川と辿り、新潟市で日本海に注いでいます。
 この様に、山岳道路ではない国道の脇に源流がある場所は、全国的にも極めて稀なケースであり、また一つの水源から、遠く離れた2ヶ所の海へ注いでいるのも、いかにも不思議な現象であると言えましょう。
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信州の自然学散歩ー9 「木曽路と木曽ヒノキ」
【信州の今】常念岳に連なる北アルプス前山の残雪が、細い筋になってきました。待ちに待った、これらへの登山が間近になってくると、天候が気になります。
↓画像をクリックで拡大します。
 ひのき巨木林
 寝覚ノ床
 夜明け前原稿
 今回は、古道めぐりの一環として歩いた、木曽路が舞台です。中山道・馬籠宿出身の島崎藤村の著書「夜明け前」の書き出しは、「木曽路はすべて山の中である」とあります。「木曽路」は、うっそうとした深山の谷間の細道を辿る街道であろうと、そんなイメージを持っていました。

 この度は、木曽路の2ヶ所の峠越えルートを歩き、その他の道は車で走破しましたが、時代が変遷した事もあってか、予想外に明るい街道でした。山中の峠道も落葉樹が多く、一部の針葉樹林帯を除けば、鬱蒼感はありません。
 
木曽路の標高最高点の鳥居峠から南へ下り、木曽福島あたりまでくると、谷は深くなり、両側から急傾斜の山が迫ってきます。しかし水量が増してきた木曽川沿いの道になると、河岸段丘が形成されて谷はかなり広くなり、白い花崗岩の河原が日に映えて、谷全体が明るく輝いて見えます。
 
木曽路周辺の地質を精査してみると、北の「贄川」から「木曽福島」までは、古生層変成岩の肥えた地層であり、「上松」以南は花崗岩及び石英斑岩の痩せた地層から成り、地質が風景や植生まで変えてしまう様です。(地質図参照)

 木曽といえばヒノキが代表される生産品ですが、このヒノキも生産地の地質に依って、材の品質が大きく左右されることが知られています。上松町の西方の山奥に、「赤沢自然休養林」という300年以上のヒノキ美林が一般公開されていましたので、足を延ばしてみました。
 
当地の現地職員の話では、「木曽ヒノキの内でも、木曽福島以北の地力がある山地では成長は早いが、材質の面では地力が低い花崗岩質山地の方が、成長が遅いぶん年輪が緻密で、高級材として評価されている」との事でした。

 これら優れた巨木は、昔から築城や巨大寺院等に多く使用され、今では希少材となっていますが、最近でも伊勢神宮や奈良の唐招提寺の再建に使われています。文化遺産も大事ですが、自然遺産は更に大切に保護されるべきです。
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●梅雨入り後、西日本は大雨を伴った多雨が続いているようですね。
信州は比較的少雨の土地の所為か、今の所晴れ間の日が挟まれています。
借家の二階から、この時期にはめずらしく夕日が映えて見えましたので、近くの撮影スポットに急行して、撮ってみました。
間に住宅があって、写真としてはいまいちですが、北アルプス前山のシルエットと、田んぼにも映っている残照をお楽しみ下さい。
中央より右側の雲の右下に位置する、尖ったピークが常念岳(2,857m)です。

(当地は、正確には安曇野には含まれませんが、ほんの近くだから大目に見て)
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信州の自然学散歩-10「中山道・木曽路を行く」

奈良井宿広い街並み 鳥居峠への杉並木道 妻籠縮のしっとりした佇まい 急坂の馬込縮
画像クリックで拡大出来ます ↑   
自然学散歩を読まれている方の感想メールの中に、「小難しい自然学の話のみでなく、滞在記や雑感も書いては如何か?」とのご意見を頂きました。
お応えして、木曽路の難所・二つの峠越ウオークを紀行文にしてみました。

●「奈良井宿~薮原宿」:奈良井宿の街並みは、江戸後期~末期の民家が180軒も連なる日本一の宿場町で、木曽路では妻籠と並んで、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されており、保存状態も良く一見の価値があります。
 近傍に、地場産業としての木曽曲げ物・漆器集落もあり、かなり裕福な宿場町だった様です。また、木曽地方では殆んど生産できなかった米の、伊那側からの権兵衛峠越えの流通基地であった事も、宿場が栄えた理由の一つです。

 中山道の難所の一つに数えられている鳥居峠越えの道は、良く整備されていて、楽に歩けましたが、古道としての面影はさほど残されてはいません。
戦国時代、ここが国境だった時期もあって、度々古戦場となり、多数の戦死者で谷が埋もれたと言われ、死者を葬った「葬沢」なる、怨念が聞こえそうな所もあります。


●「妻籠宿~馬籠宿」:妻籠宿は、全国に先駆けて、前述の「重伝建群・保存地区」に選定され、地区を挙げて保存に取り組んだ結果、江戸時代の佇まいが色濃く残る、しっとりとした宿場となっています。
 更に、この地域の凄い所は、馬籠宿までの8.5kmの全行程に亘って、建築物、道標、史跡及び道普請まで、往時の風致に再現されていることです。

 馬籠宿は、全国でもめずらしい、急坂の途中に設けられた宿場です。この様な街並みになった理由は、この地は農地が少ないため、平地をつぶしてまで宿場にしたくなかったと言う説と、馬籠が木曽防衛の最前線に当たる場所で、戦国時代にはこの地に砦があり、その砦を中心にして宿場が出来たのだという考えもあり、双方の理由でこの様な宿場町に形成されたのでしょう。

 筆者は古道歩きも趣味の一つとしていますが、今まで歩いた古道の中では、妻籠~馬籠間が「一押し」です。機会を設けて、全行程を歩いてみてください。 
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信州の自然学散歩-11「フォッサマグナのお勉強」
糸-静・構造線の大断層露頭※
地盤を補強する前の写真
・左側の地層は「変はんれい岩」
・右側の地層は「安山岩」
※【露頭】:崖等の地表に現れた地層面のこと
【信州の今】高原に広がる「カラマツ」、落葉松・唐松とも書く。柔らかな若葉の林、緑色のこもれび、落ち葉の絨毯を踏む散策は、正に至福のひと時。

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長野県の地形の成り立ちを学ぶため、糸魚川市にある「フォッサマグナ・ミュージアム」という地質博物館に行きました。素人にも分かり易く解説されており、以下はその成果の概説です。小難しい話になりますが、我慢してお付き合い下さい。
 長野県は、地学的には日本の中でも非常に特異的な地域で、「フォッサマグナ」と「火山活動」という、ふたつの大きな地殻変動に依って形成された土地と言うことができます。フォッサマグナとは、ラテン語で「大きな割れ目」という意味で、散歩-2で出てきた「糸魚川ー静岡構造線」はその西側の境界線となっています。

 この大断層の東側に位置する北・東信濃地方は、巨大な地溝の中にすっぽりと納まっており、二千万年以前は深い海でした。その後数百万年かけて、八ヶ岳・美ヶ原・浅間山・妙高山等の火山が次々に海底噴火を起こし、周辺からの堆積物も加わって、現在のような地形に形成されたと言うのです。(貼付説明図を参照) 一方、糸ー静構造線の西側の中・南信濃地方は、「プレートテクトニクス」という難解な理論(詳細は省略します)に依り、隆起が継続して起こり、北・中央・南アルプスのような高山になりました。この様な経過を経て、豊かな自然環境や全国有数の温泉が湧き出る地域となったという訳です。

 帰りに、フォッサマグナの証拠となる「糸ー静構造線の大断層の露頭」を実際に見学 できる「フォッサマグナ・パーク」なるものが近くにあると聞き、訪れて見ました。
 所が、大断層の表面は、崩落する恐れがあるという理由で、石垣ですべて覆い尽されており、辛うじて断層の境目の部分が表示されているだけの有様なのです。情けないやら、腹が立つやら! 補強するのであれば、学術的にも貴重な露頭を損ねない、別な手段がありそうなものです。どうしても覆わなければならないのなら、 フォッサマグナ・パークという様な、大それた看板を出すなと言いたい。
わざわざ遠くまで歩いて現地を訪れた人を、憤慨させてしまうだけだからです。
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信州の自然学散歩-12「信濃川源流考」
【信州の今】6/30、松本市を震源とする、M:5.5、震度:5強の直下型地震が発生。「糸魚川-静岡構造線」の一部を構成する牛伏寺活断層との関連を気象台で確認中とのこと。↓画像クリックで拡大出来ます。
 「信濃川」は、日本百名山の「甲武信岳」を源流とする、日本一長い大河です。
主な流域は長野県の1/2を占め、下流の新潟県では米どころの越後平野を潤して、新潟市で日本海に注いでいます。面白いことに、信濃側では「千曲川」と呼び、越後側では「信濃川」と呼ぶ。(いささか韻を踏んでいます)

 名前はさて置き、今回は源流の場所に、「いちゃもん」を付ける話です。
先に「種明かし」をしますと、ある地学専門書に、信濃川の源流について言及しており、河川の本流の定義である「源流点から合流地点までの距離・流域面積・河川年流量」を比較した所、いずれも犀川の方が、千曲川より大きな値であると指摘があったのです。そこで今回、長野県内の全流域と甲武信岳の源流部を探訪して、なぜその様になったのか、その経緯を実地検証してみました。

 まず、千曲川と犀川の合流地点である、善光寺平の古戦場・川中島付近から両河川を眺めてみました。やはり文献に示す通り、犀川の方が川幅・水量共に大きく、明らかに本流の様に見えます。
では何故、客観的事実を押し曲げても、千曲川を本流にしたのでしょうか?
 奈良時代までは、千曲川流域は信濃の国の中心地であり、源流部から国境までは四つの盆地が連なっていて、この一連の流路を千曲川と名付けて本流とするのが、必然の成り行きだったと推察されます。往時は僻地だった中信地方から、山間を縫って東流してきた犀川が、傍流扱いにされるのは当然です。

 続いて、源流部の甲武信岳を探訪しました。意外なことに、登山口から源流までの道標には「信濃川源流」ではなく「千曲川源流」と表記されていました。
私考するに、信州人はこの日本一の大河を信濃川とは認めていないと言うことです。そうであれば、「千曲川の源流は甲武信岳」とし、「信濃川の源流を犀川・梓川の源流である槍ヶ岳」としても、異議を唱える信州人はいない筈です。

一旦既成事実となった事を、覆すのは困難を伴いますが、『統計的事実を根拠に、正当化に挑戦してやろう』という奇特な人は居ないのでしょうかねぇ。
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信州の自然学散歩-13「浅間山の大噴火災害を追って」

【信州の今】4月下旬開花の「杏子」が、早くも実ってスーパーの店先へ。遅れて開花した「林檎」は、ゴルフボール大の実となって、青い盛り。
     
外輪山黒班山からの浅間山   鬼押し出し溶岩 巨大溶岩塊「黒岩」 
 梅雨の合間を縫って、浅間山の周辺の花巡り。「湯の丸高原」のレンゲツツジ、「池の平」のコマクサ、「高峰高原」のイワカガミが見頃でした。またこの時期には珍しく、浅間山の雄姿も外輪山の黒斑山から目に収めました。

 翌日、「浅間火山博物館」に立ち寄り、天明3年(1783)に発生した大噴火の猛威を、古文書の記録や映像展示に依り、詳しく知る事ができました。その際には、噴火災害の見本市の様な諸現象が一度に発生したと言うのです。
時系列を追って列記しますと、
①大規模な火山灰の拡散により、関東一円の農作物等に大被害が生じた。
②「火砕流」が、北麓の嬬恋村を襲って、多くの人的被害が発生した。
③火口より流出した「溶岩」が、中腹にあった柳井沼に流れ込んで水蒸気爆発を発生させ、その爆風により大規模な「岩屑なだれ」が起き、土石流を伴って
15km先の吾妻川を堰き止めた。
④更にそれが「決壊」を起こし、泥流が利根川流域にまで被害を拡大させて、合計1,500人余という、日本の火山災害史上で最大級の死者が出たのです。
 尚、この災害の惨状は、立松和平著・小説「浅間」に詳しく述べられています。

 引き続きガイドマップに沿って、溶岩台地や噴出物の現場等も訪れてみて、自然の猛威の一端を体感しました。殊に、差し渡し20mもある巨大な溶岩塊が、土石流に乗って、なだらかな高原をどの様にして駆け下ったのか、誠に想像を絶するものがありました。この溶岩塊は「黒岩」と呼ばれ、噴火口から僅か7kmの、北軽井沢の広大な別荘地の中央に、ランドマークとして自然の姿のまま置かれています。

 別荘地を購入した人に、この事実を説明して感想を聞いてみたいですね。「俺が死ぬまでは、そんな大噴火は絶対に起こらない」と、うそぶく人。「まさか、そんな所だったとは!」と、絶句する人。どちらかでしょうね。
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信州の自然学散歩-14「上高地のケショウヤナギ」


【信州の今】夏山シーズンに突入し、テレビで信州の主要な山の天気予報を放映中。遭難防止の為とのこと、さすが岳都ならではの番組。いや、これは助かる。
 
 6月末に、上高地に続く国道と県道の豪雨災害の復旧工事が終了したので、早速出かけてみました。今回の主目的は焼岳登山なのですが、その前に梓川の「ケショウヤナギ」の生態の観察に関して述べてみたいと思います。

 ケショウヤナギは、上高地のシンボルとも言うべき樹木で、梓川の河原に点在群生している希少種です。若木の幹が粉白となり、小枝が早春に紅色を帯びて、化粧した様になる事から、「化粧柳」の和名がついたそうです。この木は寒冷地にしか成育せず、日本では北海道の日高・十勝地方の一部、本州では上高地の河原の砂礫地にしか自生していない、絶滅危惧種です。安曇野の梓川にも自生しているとの話で、若木の紅色を見たいと、4月に現地へ出かけてみたのですが、残念ながら近年の洪水で殆んど流出していました。

 ケショウヤナギの種子は、河川が氾濫して森林を破壊し、そこに出来た新たな砂礫の中洲にいち早く定着して発芽する、森林更新のパイオニアです。しかし、同時に若木がある程度まで成長するまでは、その場所が何年間かは洪水で押し流されない必要があります。
 「上高地自然史研究会」という大学の研究者の組織が、ケショウヤナギに関する生態学的研究結果を、インターネットに発表して警鐘を発しています。同報告書に依れば、上高地では近年、梓川の氾濫を防ぐ目的で堤防建設や河床の固定工事を行なって来たのですが、そのため氾濫に依る新たな森林破壊が無くなり、発芽の為の新地の中洲が生じなくなりました。その結果、ケショウヤナギの更新が阻害され、皮肉にも近い将来、絶滅に瀕する可能性が危惧されると訴えています。

 自然保護の目的で行なった行為が、希少植物を絶滅させる恐れに繋がったという、環境行政の難しさが、顕在化した一例です。自然の生態系を破壊する人為的な介入は、人命や財産を守る為の必要最小限に止めるべきです。
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信州の自然学散歩-15「焼岳が造った上高地の地形」

【信州の今】梅雨明け後の松本では、真夏日が続いているが、猛暑日は無く、湿度も低い。昼夜の気温差は平均12℃と大きく、夜は快眠。「さわやか信州」のゆえんである。
   
 ↑ この画像はネット上から拝借しました  焼岳からの上高地と梓川 ↑

 ………………………………………
 待ちに待った夏山シーズンと成り、今期のアルプス登山第1号として、7月上旬「焼岳」に登頂しました。焼岳は、2,500m弱の標高なのですが、日本アルプスで唯一の活火山という貴重な存在に依り、「深田久弥の百名山」の仲間入りができた山で、今でも頂上から噴煙を上げています。
 この山は、粘り気の大きい溶岩が冷えて固まりながら、せり上がって形成されるトロイデ(鐘状)型火山で、大正池からは頂上付近が剥き出しの白っぽい溶岩が見え、荒々しい景観です。山体が白く見えるのは、珪酸(SiO2)の含有量が比較的多い「石英安山岩」という岩石が主体の山だからです。
 大正4年(1915)に焼岳が噴火して、膨大な泥流が梓川を堰き止めて大正池ができ、湖面に残ったカラマツ等の枯木が上高地の独特の風物となっていました。
上高地・梓川の河川改修計画概要図
 
梓川本流の防災計画・上高地の場合
 (国交省・松本防災事務所パンフより)
この辺りの事実までは、大抵の方はご存知ですが、実は焼岳はそれ以前にも、上高地に重大な影響を与えていたのです。

 梓川は、元々は飛騨側に流れていたのですが、約10万年前に焼岳火山群の火山活動に依って堰き止められ、上高地は現在の横尾近くまで堰止湖が出来ました。その時梓川の流路は、現在の信州側に捻じ曲げられたのです。堰止湖が発生した事により、湖底に堆積物が溜まって平らになりした。堰き止め自然堤防はその後洪水により決壊して、徐々に水位が下がり、現在の上高地が形成されたのです。言ってみれば、今の上高地の景観は、焼岳の火山活動により形作られたものです。

 焼岳は、今でも崩落が続いており、膨大な量の土砂が大正池に流れ込んでいます。国交省は河川改修等の治山対策を計画しているようですが(資料参照)、前回にも述べたように、上高地の貴重な自然環境に人工建築物は禁物です。手遅れにならない内に、地域一帯を「世界自然遺産」に登録すべきと考えます。

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信州の自然学散歩-16「乗鞍高原の成り立ち」

【信州の今】梅雨明け後も天候がすっきりしないまま、アルプス連山は雲に隠れた日が続く。そう言えば、3年前・7月末の鹿島槍遠征の折も、一度も頂上を拝めなかったが…。                 
   
 北アルプスの二つの火山・「乗鞍岳」と「焼岳」は、直線距離でわずか15kmに位置していますが、火山の成り立ちが大きく異なります。前回の焼岳の成り立ちに引き続いて、この違いについて比較検討してみたいと思います。
   
 乗鞍岳・焼岳の溶岩の比較
名称 乗鞍岳番所溶岩 焼岳・頂上溶岩
岩石の種類 輝石安山岩 石英安山岩
一般名 アンデサイト デイサイト
珪酸の含有量 52~62% 62~70%
溶岩の粘度 低い 高い
溶岩の状態 流れ易い 鐘状に盛り上がる
岩石の性質 金属質で硬い 花崗岩に近く脆い
        乗鞍岳の位置図は前報参照
 一般に溶岩マグマは、含まれる珪酸(SiO2)の含有量に依って粘度が左右され、含有量が多いと(60~70%)粘度が高くなり、焼岳の溶岩ドームの様なこんもりとした山体を形成します。含有量が少なくなってくるにつれて(50~60%)粘度が低下して乗鞍岳のように大きく裾野を広げた山体になります。併せて、物質は一般に温度が高いほど粘度が低下しますが、珪酸の含有量が少ないマグマは、金属成分(Fe・Mg・Al等)が相対的に多くなり、融点が上昇してくるので、その点からも更に粘度が低下する事になります。

 乗鞍岳は、五つの火山体が重なり合った複合火山で、粘度が比較的低い溶岩であった為、広範囲に流れ下り極めて大きな山体となりました。その内、東側の谷を埋めた「番所溶岩」は珪酸の含有量が少ない「輝石安山岩」です。この溶岩は粘度が特に低かったため、当時の沢沿いに梓川近くまで、全長10kmも流れ、標高1,500mのなだらかな台地の「乗鞍高原」が成形されました。

 これらの溶岩は、金属成分が多いため非常に硬く、容易に侵食されません。又、溶岩の縁に当たる所は柱状節理が発達して崖になるので滝が成形され易く、乗鞍岳周辺には多くの滝があるのはその所為です。一方、台地上の溶岩の窪みは大小の湖沼となり、美しい景観を湖面に映しています。

 乗鞍高原は、近くに上高地という著名な観光地があるためか、存外に知られていませんが、一日ゆっくり歩いて自然を楽しむトレックキング・コースが幾つもある、素晴らしい所です。初夏から秋にかけて信州に行く機会があれば、訪れてみることをお勧めします。

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信州の自然学散歩-17「コマクサの悲劇」
【信州の今】林檎の実も太り終え、夏日を浴びて紅く色付き始めました。遅い夏本番を迎え、大きなリュックの登山客が松本駅にあふれます。
   
草津白根山のこまくさ   本白根山からの眺望
高山に登る楽しみのひとつに、「登山道沿いに咲く高山植物を鑑賞すること」があります。その中でも、めったにお目にかかれない「コマクサ」は、高山植物の女王と呼ばれ、登山者のあこがれの花として誰もが認めるところでしょう。
 今まで訪れた「コマクサ」の自生地(長野県周辺)
 

 7月中旬に「草津白根山」で、コマクサの稀に見る大群落に出会いました。聞く所に依ると、ここのコマクサは盗掘で一時は絶滅に瀕していたそうです。これを見かねた地元の篤志家達が、自家栽培して増殖し、半世紀かけて今日の状況まで回復させたという、驚嘆すべき活動がありました。しかし自家栽培やその苗の植え付け等、自然保護の観点から見ると、やり過ぎ感が否めません。地道な努力には敬服しますが、「そこまでやるのか!」と言いたいのです。

 何故なら、コマクサは高山荒原植物群落を代表する種で、花崗岩類の砂礫地という、植物が生育するにはあまりにも厳しい場所にのみ、自生することで知られています。従って、別な環境・土壌で栽培を繰り返した場合は、もはや高山植物ではなく、花全体が矮小化する等の亜種に変化してしまうからです。尤も、ここは高山植物園だと割り切れば、それはそれで意義はありますが…。

 コマクサが、絶滅に瀕する状況に至ったのは、何故でしょうか?ひとつには、昆虫や動物に食害されない様に「アルカロイド」という毒を固体内に取り込んだためですが、人間にまでには及び付かなかったようです。毒は使い様によっては薬になるので、御嶽山・木曽駒ヶ岳周辺では「御岳薬草」の配合剤として昔から利用され、乱獲されてきました。

 もう一つの理由は、花が個性的で美しかったために、盗掘されたからです。哲学者で登山家の串田孫一はエッセーの中で、「山の花は、山に登らなければ見る事ができないから、つまり高嶺の花であるから貴いのだ」と訴えています。園芸品種になったコマクサは、色も褪せて最早ただの花に堕ちているのです。
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信州の自然学散歩-18「燕岳登山 アラカルト」

【信州の今】それぞれ地味な事故なので未報道だが、夏山本番を迎えて転倒・滑落遭難が多発。8/7までの2週間中、長野県内では件数34件・死者7名・行方不明2名が発生。天候不順の為か?

ガスに霞む燕岳  イルカ岩 
   
 
燕岳の花崗岩の性状
名称 燕岳の花崗岩
岩石の種類 両雲母花崗岩
組成 石英、長石、白・黒雲母
珪酸の含有量 66%以上
岩石の性質 結晶が粗大なので、
風化しやすい
...............................
●「合戦尾根」:北アルプス三大急登のひとつ。標高差1,200m強を4時間で一気に燕山荘まで直登する登山道で、縦走登山者がいきなり出会う酷な試練です。
名前の由来は、平安初期に活躍した「坂上田村麻呂」が北征の途中、当地の「魏石鬼八面大王」なる無法者の頭領を、登山口の近くにある「合戦沢」で討ち滅ぼした伝説に依ります。尚、八面大王は義賊であり、田村麻呂が信濃の民に貢を強いたのを見かねて、挙兵して戦ったという判官贔屓の逆説もあります。

●「山の成り立ち」:燕岳全山が約7千万年前に生成した古い花崗岩で、特に山頂付近は「両雲母花崗岩」という、希少で美しい白色の岩石で覆われています。
この岩石は、石英、長石、白・黒雲母の粗大な結晶で構成されており、比較的風化し易いため、「イルカ岩」・「めがね岩」等と名付けられた自然の彫刻が各所に見られます。山名の由来は、ツバメの雪形があるため、頂上付近にツバメが良く飛来するため(現に筆者も目撃しました)、など諸説ある様です。

●「雲上庭園」:森林限界より上部は、花崗岩が風化して出来た白い砂礫と緑のハイマツが、白砂青松の絶妙なコントラストで彩り、周囲に奇岩が林立する自然庭園です。更に白い砂礫地には、可憐な淡紅のコマクサ等の高山植物が華を添えます。燕岳が「花の百名山」になぜ選ばれなかったのか、不思議に思えます。
只、借景の、槍ヶ岳を代表とするパノラマがガスの中だったのが、悔やまれました。

●「中房温泉」:登山口には、中房温泉という有名な秘湯があり、下山後の汗を流すには絶好の立ち寄り湯です。近くに火山もないのに、何故か90℃以上の単純硫黄泉が、豊富に湧き出ています。北アルプス周辺にはこの様な温泉が多数点在していますが、この地一帯の地下4~5kmには、熱源としての溶岩マグマが、花崗岩塊内に貫入して来ている証拠が確認されています。

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信州の自然学散歩-19「霧が峰・美ヶ原高原の変遷」

【信州の今】晴天の午後、三千米級の夏山の上に湧く、入道雲は高さも半端ではない。必ずと言って良いほど、驟雨や雷に見舞われる。山の上では特に危険な時間帯。
   

長野県の中央部に位置する「霧ヶ峰」・「美ヶ原」両高原は、100万年~80万年の昔に、フォッサマグナの海底部より噴火形成されたもので、粘度の低い安山岩溶岩が、平坦なテーブル状の基盤となった盾状(アスピーテ)火山で、隆起に依って現在の様な高原になったものです。但し最近の研究では、美ヶ原は火山ではなく、火山質の堆積岩が隆起した準平原だとする説が有力の様です。 
両平原とも頂上部は起伏が少ない、なだらかな草原となっており、時期折々に美しい花々が咲き揃う観光地となっていますが、この草原は太古の昔よりこの様な景観が続いていたのではありません。古来、高原の麓で営まれている農村の民が、農耕に使役する牛馬の冬の間の餌として干草を確保し、また水田の肥料として青草を使用するために、春先に高原を野焼きしてきました。
 所が昭和30年代頃より、農業が機械化され始めて牛馬を使用しなくなり、施肥も化学肥料が使われる様になってきて、草の需要が急激に減少した為、野焼きも次第に行なわれなくなって来たのです。このままで推移すると、やがてこれらの草原は、いずれ森林化してしまう運命にあります。
 今回別な観点からも、大きな環境変化を目の当りにしました。霧ヶ峰は多彩な高山植物の宝庫として有名でしたが、最近ではニホンカモシカの食害に依って、車山周辺のニッコウキスゲが激減していました。20年前に訪れた時には、全山が黄色に染まる程咲き揃っていたのですが、今は防護用の電気柵で囲んだ一部の面積だけが以前の様に残り、他の部分は全く見る影もありません。
 又、車山の北西に「八島ヶ原湿原」という高層湿原がありますが、この湿原の周囲約4kmに長大な網柵を張り廻らして、高山植物を保護するという涙ぐましい努力を行なっています。人間が、カモシカの天敵であるオオカミを絶滅させたこと等、自然の生態系を破壊した、その「付け」が回ってきた訳です。


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信州の自然学散歩-20「温泉の新たな評価基準」

【信州の今】 2011/08/28
8月も山の天候は不順で、アルプス各山の予報は「曇りか霧、時々雨か雷雨」ばかり。満を持して2回ほど出かけたが、深い霧の中で取材もままならず、何れも敗退。

                    野沢温泉村、「岡本太郎」ゆかりのモニュメント
     
 野沢温泉の外湯 野沢温泉のシンボルデザイン   村役場前の「乙女」像

そんな事で、ネタ切れの時のために用意していたテーマが、出番となりました。筆者は、自他共に認める大の温泉好き人間の一人です。今回、信州を長期滞在地に選んだのも、この地が全国有数の温泉県だった事も選択肢の一つでした。

 過日、北信濃で野沢菜の発祥地として有名な「野沢温泉」に立ち寄ってみました。此処は天才画家「岡本太郎」が、こよなく愛した温泉で、野沢温泉村の名誉村民第1号に認定され、モニュメントやデザイン文字が温泉街にあふれていました。又、今年が彼の生誕100年という事で、各種の記念行事が予定されています。

 野沢温泉は、県下でも指折りの泉質を誇る「硫黄泉」で、全施設が源泉掛け流しという贅沢な湧出量が自慢の、すばらしい温泉です。

 しかし、ここの温泉組合はこれに飽き足らず、更に他との差別化を図るために、「日本温泉総合研究所」という会社に委託して、新しい温泉の健康診断「温泉の酸化還元電位(ORP)分析」なるものを導入したそうです。

 この理論は、『地下にある泉源は酸素に触れていないので還元状態にあるが、一旦湧出した湯は、時間の経過と共に酸化(老化)してきて、温泉としての効能が低下してくる』というものです。従って一般には、「引き湯は自家泉源に比べて劣り、湯船に直近している自家泉源方式が新鮮なお湯」だと言われています。

 野沢の湯は集中管理の引き湯方式ですが、源泉は自然湧出で、しかも給湯ポンプや大型の貯湯タンクなど使わずに各施設に自然流下で掛け流しして配湯しているため、各湯船でも源泉と殆んど湯質に変化がなく、全国でも有数の還元電位を有すると認定されたそうです。

 「掻き混ぜない・溜めない・空気に触れさせない」のが、酸化防止の要諦のようです。そう言われてみれば、尤もな理屈であり、これは温泉の新しい評価基準として、今後定着してくると思われたので、ここに紹介してみました。

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信州の自然学散歩-21「後立山連峰・五竜岳の地形と地質」
【信州の今】 2011/09/04
「黒部-立山アルペンルート」は、今年で40周年のキャンペーン中。大震災で伸び悩んでいたが、夏季は都市部の省エネ対策とやらで、昨年比20%増。
     
峨峨とした岩稜の五竜岳  五竜岳より南方を望む  五竜岳より北方を望む
【後立山連峰の非対称山稜地形】
後立山連峰の東側(右)は、西側に比べて大きく切れ込んでいる
 漸く8月末に至って、好天のアルプス登山が実現し、長い鬱積が解消しました。後立山連峰の主要峰中、唯一未踏の五竜岳(2,814m)の踏破が今回の目的です。アプローチは「遠見尾根」のゴンドラリフト経由で、標高1,500mからの登り始めですが、長大な支尾根は四つのピークがあり、頂上までは6時間の長丁場でした。五竜山荘に宿泊した翌日は雲海の晴天で、アルプス大展望を満喫できました。

 後立山連峰の南北に連なる稜線の傾斜は、西の富山側が緩く、東の長野側が急な非対称山稜を呈しています。これは、フォッサマグナの西縁である「糸井川・静岡構造線」に沿っているため、山塊が隆起する際、大断層の影響を受けて切れ落ちたものと言われています。また、鹿島槍ヶ岳以北の山は、西側に高山が無いため積雪が多く、北西風に吹き飛ばされた雪が山稜の東側に多量に吹き溜まり、それが氷河期に氷河となって、山腹を削ったとも考えられています。
 
【五竜岳頂上付近の岩石】
・名称:「流紋岩質の溶結凝灰岩」(火山岩)
・組成:珪酸(SiO2)が花崗岩類と同程度
 の
65%以上を含有
・性状:火山岩中最も硬い分類に入る岩石


 五竜岳は、他の後立山連峰の山とは山容を異にしており、頂上付近は荒々しい岩稜が肩を怒らした様に聳えています。深田久弥の言葉を借りれば「山容雄偉、岩稜峻厲(シュンレイ)」と表現されており、峨々とした山という意味なのでしょう。
 この山は、約二百万年前の火山活動で造られたもので、岩石は「流紋岩質の溶結凝灰岩」という最も硬い火山岩なので、穂高岳と良く似た岩稜に形成されたのだという。勿論火山と言っても、非常に古いものであり、その後に削剥と隆起が繰り返された結果、火山とは似ても似つかぬ岩山になっています。

 「自然学散歩」では、今まで色々な山の成り立ちや岩石について言及しました。その訳は、一般の登山者が、日頃あまり気に留めていない足元の鉱物について、少し深く探求してみると、それがその山の植生や自然景観に大きく関わっている事が解ってきて、登山の楽しみの幅が増すと考えたからです。登山に興味がお有りの方は、一度地学にチャレンジされては如何でしょうか?
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信州の自然学散歩-22「梓川水系の揚水発電所」
【信州の今】2011/9/11
台風一過、朝夕はめっきり涼しく、見上げれば鰯雲。高原の街路樹ナナカマドは、たわわな実が朱色に染まる。季節は秋に移ろいでいる。
   
 HPより転載  
       
 北アルプスの槍ヶ岳を水源とする梓川水系は、豊富な雪解け水と流域の大きな高低差を利用して、各所に水力発電所が建設されています。その中でも大規模なものは、「奈川渡・水殿・稲核ダム」で、この安曇・三ダムを活用して、東京電力が2ヶ所の揚水発電所を設置しています。今回は電力のピーク対策について、述べてみたいと思います。

 「揚水発電」は、原子力発電所の様に、一定負荷で運転する必要がある発電設備に付随する設備として位置付けられています。この仕組みは、余剰の夜間電力を利用して、下流のダムより上流のダムへ揚水しておいて、昼間の電力がピークとなる時間に集中して発電する、負荷調整機能を持つ発電設備です。
「位置のエネルギー」を失った水を再度揚水するため、総合発電効率は60%程度となり、いわゆる省エネとはなりませんが、交流電力は蓄電する事が出来ませんので、必要な発電設備として活用されています。
 それぞれのダムの最大許可出力は、62万・25万・3万KW(稲核は揚水発電ではない)となっており、国内で最大のアーチ式ダムの水力発電所である黒四ダム発電所の34万KWに比べても3倍近い発電量です。
東京電力は長野県にこれ以外でも、同じ信濃川水系の高瀬川、及び南相木川(東信)にも揚水発電所を所有しており、如何に揚水発電所が重要な役目を担っているか、この事実を見ても明らかです。

 筆者は元来技術屋なので、大型の水力発電所を是非見学したいと思い、奈川渡ダムサイトにあるPR施設の「東電テプコ館」を訪れてみましたが、残念ながら同館は大震災以降、今になっても休館中で、見学は出来ませんでした。同社としては、会社創立以来の危機どころか、日本の安危存亡にかかわる原発事故が発生したのですから、止むを得ない仕儀なのでしょう。
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信州の自然学散歩-23「白いピラミッド・甲斐駒ヶ岳」
【信州の今】2011/09/18
純白の蕎麦の花が一面に咲き揃い、黄金色に実った稲穂と彩りを競う。早生粉がいち早く店頭にお目見え。新蕎麦の美味しい季節が巡って来た。
   
 甲斐駒ヶ岳と支峰の摩利支天  紺碧の空に映える白い花崗岩

……………………………
 南アルプスの最北端に位置する「甲斐駒ヶ岳」(2,966m)は、夏でも雪を頂いているかのように白く、山腹はピラミダルで、遠くからでもそれと判る特徴的な山です。深田久弥は名著「日本百名山」で、『もし日本の十名山を選べと言われたとしても、私はこの山を落とさないだろう』と言わしめた名山なのです。
9月、「北沢峠」(2,030m)より2回に別けて、仙丈ヶ岳と甲斐駒ヶ岳に日帰り登山で往復して来ましたが、両山は地質的に大きく異なっていました。
   
 赤石山脈の諸峰の大部分は、中生代・白亜紀(約1億年前後)の堆積岩で構成されいるのですが、最北部のみは新生代・第4期(約一千年前)の火成岩の一種「角閃石花崗岩・閃雲花崗岩」という白い岩石で形成されています。同じ山脈なのに、なぜここだけ新しい地質になっているのでしょう?
 その理由は、赤石山脈の真北を通る「糸魚川-静岡構造線」の大断層の影響で、構造線に沿った山域の表層にあった古い地層が激しく削剥され、その下部にあった花崗岩が隆起してきたのだと推測されています。

 「花崗岩」は、火成岩の一種の深成岩類を代表する岩石です。地球のマントルと地殻の境目付近で発生した「マグマ」が、地殻内を上昇してきてマグマ溜まりを造りますが、地下3km以深の所で、長い時間を掛けてゆっくりと冷えたものが、「深成岩」となります。冷えてゆく過程で、最初に融点の高い金属類が含まれた珪酸塩化合物が結晶化し、比較的比重の大きい岩石類が生成されて、ゆっくり沈殿します。残ったマグマは更に温度が下がった段階で、石英・長石が主成分の化合物として結晶化し、比重の小さい花崗岩類となります。

 花崗岩の岩石成分は、周りの岩石に比べて軽いので、固まる前に浮力で上部に集まります。また地盤に圧縮力が働くと、軽い花崗岩が選択的にのし上がり、超長期的には隆起して地表に現れる、という仕組みです。岩石が浮き上がるなんて奇想天外な話ですが、地学で確立している学説なのです。
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信州の自然学散歩-24「鳶山崩れ・
その① 崩れは如何に起きたか」
【信州の今】 2011/09/24
風神が列島を痛めつけ、夏を連れて北へ去りぬ。信濃の山ノ神よ、お膳立ては整いし故、早々にきこし召し、酔って候え。
   
立山カルデラ内の眺望   カルデラ底の新しい崩落地
 北アルプスでも有数な観光ルートである「立山-黒部アルペンルート」の直ぐ脇に、一般人は立入禁止となっていて、地学人には垂涎のスポットがあります。
立山側の、室堂~弥陀ヶ原・高原ルートの南側に位置する「立山カルデラ」と呼ばれる大凹地で、日本三大崩落地のひとつ『鳶(トンビ)山崩れ』です。
自然学ー4で登場した幸田文は、当然この地を訪れ、その足跡を残しました。 9月中旬、「立山カルデラ砂防体験学習会」という、砂防博物館が主催するバスツアーに参加し、中身の濃い体験をしましたので、2回分割で報告します。

 鳶山崩れは如何にして起きたのか?崩落の要因を掘り下げてみると、三つの事象が複合的に重なった事に起因することが明らかとなりました。

 ①立山カルデラの山腹が、主として火山性噴出物の火砕流が厚く堆積した、崩壊し易い安山岩類であったことです。尚、砂防博物館は、この地域を立山カルデラと呼んでいますが、火山学者はカルデラと言うべきではないと指弾しています。何故なら、火山活動に依って凹地が形成されたのではなく、侵食や崩落が原因で、鍋底の様な形になったという事が実証されているからです。

 ②直近に存在する「跡津川断層」という大活断層で、安政5年(1858)に飛越地震(M7.1)が発生した事に依ります。この地震の為、カルデラ壁の一角の鳶山が広範囲に深層崩壊を起こし、膨大な量の土砂がカルデラ底に堆積しました。
堆積物は、その谷を堰き止めて堰止湖ができ、その後2ヶ月間に2回決壊して、激しい土石流が下流の富山平野を襲い、甚大な被害をもたらしました。

 ③この流域の河川である常願寺川が、標高差2,900mに対して、川の延長は僅か56kmという世界有数の急流であった事です。
河川の平均勾配が大きいと、それだけ削剥され易くなるのは自明の理です。

 この膨大な崩落を防止する為の、難しい治山事業に対して、県や国は如何に立ち向かったかは、次回に述べさせて貰います。【次回・治山事業に続く】
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信州の自然学散歩-25「鳶山崩れ・
その② 際限ない治山事業」
【信州の今】 2011/10/2
林檎・梨・葡萄・柿・栗など味覚の秋の果物が、豊富に店頭に並ぶ。特に林檎は新鮮でみずみずしく、本場信州ならではの味わいが嬉しい。
      
 白岩堰堤(重要文化財)  本宮砂防堰堤(登録文化財)
 立山カルデラの崩落地の治山事業が開始されたのは、約100年前からですが、未だに延々と事業が続けられており、しかも何時終了するか見込みも立たないという事実を見ても、これが如何に困難を極めたものかを物語っています。
白岩堰堤の全容
 事業は当初、富山県が管轄していたのですが、余りにも規模の大きい事業なので、県ではとても対応が出来ないということで、80年前より国の直轄事業になりました。近年は日本一の継続予算規模(年間50億円)を誇る国の治山事業となっており、高さ日本一の堰堤及び貯砂量日本一の砂防ダム等の構築物が建設されています。これらの堰堤やダムが、何と国の「重要文化財」や「登録有形文化財」に指定されている代物、というので驚かされます。

その他、各種型式の砂防ダムや、山の斜面の崩壊を防ぐ山腹工、護岸提の水抜き用の大立抗などがカルデラの底に並んで、まるで治山施設の大展示会場です。
 その上、専用の砂防博物館まで造っているのですから、もし蓮舫大臣が知ったら事業仕分けをして、廃止とするかも知れません。しかし、このカルデラ内にある約二億m3という膨大な量の土砂が全部流出した場合は、富山平野全体が2mも埋まってしまうと言いますから、まさか放っておく訳には行きますまい。

 車中、案内の学芸員に『何の変哲も無く、文化的な匂いも感じないコンクリートの塊が、重要文化財とは如何なものか』と問い質したりしました。
 しかし実際に重文の「白岩堰堤」を目の当りにし、現地でその仕組みの説明を受けてみると、土砂と水の猛威を実に巧みな方法で殺いでいるのが理解できました。昭和14年に、当時の土木技術の粋を集めて完成した施設で、未だに谷底の最後の砦として現役のまま活躍している事実を見ても、やはり重要文化財として評価してもおかしくは無いのかな、と感じた次第です。
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信州の自然学散歩-26「雨飾山と百名山事情」
【信州の今】2011/10/6
今年の紅葉は、9月の早い時期に一時的に気温が低下したため、葉がダメージを受けて先端部が枯れたり、落葉したりして、「いまいち」の様相。
     
 雨飾山の布団菱と呼ばれる岸壁    雨飾山より75km先の 槍・穂高を望む
 信越国境に連なる頚城火山山塊の西端に位置する「雨飾山」(1,963m)は、妙高・火打・焼山といった2,400m級の高山が割拠する中にあって、目立たない小振りの山です。しかし、深田久弥が『つつましやかな、むしろ可愛らしいと言いたいような山』と評し、彼が愛してやまなかった山の一つとして、日本百名山に選んでいます。
 この美しく響きの良い山名の由来は、頂上付近に二つの峰がある双耳峰を表現する「両飾山」が、「雨飾山」と表記変化した、等の諸説があるようです。

 9月末、小谷温泉登山コースを登り、信州滞在終盤の一日を楽しみました。四つあるコース中、最も変化に富んだこの道は、ヤマメが棲む渓流沿いの木道、ブナの巨木の自然林、ゴロ石が重なる荒れ沢、ハシゴのある岩場の急登、頂上直下のなだらかな笹原と続きます。平坦な笹原の南側は切れ落ちて、雨飾山のシンボル「布団菱」と呼ばれる滑らかな大岩壁が形成されていますが、これは頻発する全層雪崩が、山の基盤である硬い閃緑斑岩(玢岩とも言う)を削って出来た「アバランチシュート」と呼ばれる耳慣れない地形なのです。

 雨飾山が百名山の中間入りしていたため、近年登山客が増えてきて、登山道やその周辺の荒廃が目立ってきました。そこで地元自治体は環境省の「日本百名山登山歩道整備事業」や大企業の社会貢献事業資金等の財源を活用して、木道や歩道階段の整備、登山口の水洗トイレの設置、等を手掛けてきました。しかしそれでも追い付かず、高山植物が多い頂上付近の笹原などは、幾筋もの道ができて踏み荒らされているので、木道化の必要性を指摘されています。この様な問題はこの山のみに限らず、他の百名山も同様に抱えています。

 そこで、登山客が集中する人気の高い山は、整備に必要な費用の一部として、入山料やトイレ使用料等を受益者負担として、登山客よりの徴収を義務付けるという事を法制化しては如何かと、筆者より提案する次第です。

【追伸】8日に松本を撤収致しますので、メールの送受信がしばらく中断します。
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信州の自然学散歩-27「最後の山歩き」
   
 穂高連峰のモルゲンロート(朝焼け)  
 
 屏風の耳よりの槍・穂高連峰 俯瞰

穂高連峰周辺の登山地図
 最後の自然学散歩は、日本アルプス屈指の紅葉の名所、上高地から徒歩6時間の「涸沢」で締めくくりました。

 涸沢は、穂高連峰の3,000m超の名峰、前穂高・奥穂高・涸沢・北穂高岳にぐるりと囲まれたお椀型の谷底で、夏は多くのテントが賑わう登山基地です。この谷は、2万年前の氷河で削剥され、氷河圏谷(カール)となったものです。
 涸沢の紅葉は、ナナカマドの赤やオレンジ、ダケカンバの黄葉が主体です。今年は紅化がかなり遅くなったことと、9月の早い時期に急激な冷え込みがあったため、葉の先端がダメージを受け一部が枯れて、「いまいち」でした。ポスターに載る様な美しい紅葉は数年に1回、見頃の期間も2~3日という。

 この地の紅葉が美しい理由について、少し検証してみましょう。地形的には2,300m以上で、周囲三方が黒っぽい安山岩質の溶結凝灰岩の岩壁に囲まれているので、夜間の放射冷却効果が大きくなります。そこで岩壁
に接した空気が冷やされて壁を降下し、谷底の立木を冷気が覆います。しかも、カール内には大雪渓が秋まで残っており、冷却が更に増長されます。
 一方昼間は、谷が東向きに開いているので日当たりは良く、そのため昼夜の温度差が大きくなり、紅葉がより促進されるものと考えられます。

 明朝は快晴で、穂高連峰がモルゲンロート(朝焼け)で輝きました。帰路は屏風パノラマコースを取り、屏風の耳(2,565m)より槍・穂高連峰の素晴らしい展望を楽しみました。このルートは アップダウンが激しく、かなりの悪路ですが、景観が抜群なのでお奨めのコースです。
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 半年の間、「自然学散歩」にお付き合い頂き、誠に有難うございました。地学という日頃あまり馴染みの無い分野の視点から、信州をご紹介してみたのですが、多少はお楽しみ頂けたでしょうか?専門用語については、若干解説を加えたかったのですが、文が更に硬くなると考え、省略させて頂いたことをお断りして、筆を置きます。
またチャンスがあれば、別の続編でお目に掛かれれば幸いです。//中村雄二
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